村の概要・紹介

更新日:2023年05月24日

西郷村の概況

西郷村は、東京、仙台の中間、福島県と栃木県境の那須東麓に位置し、東は"白河の関"で有名な白河市、北は"羽鳥湖高原"の岩瀬郡天栄村、西は"大内宿"の南会津郡下郷町、南は"那須高原""御用邸"を擁する栃木県那須郡那須町と接する。東西約22キロメートル、南北約14キロメートル、面積は192.06K平方キロメートル、本村内に源を発する阿武隈川が村の東西を貫流する。

住民の生活圏は概ね標高400メートルから600メートルで東北本線の東京・盛岡間では最も高地に位置する。村土を大別すれば、3つの地域に分かれ、東部の都市部、役場を中心に集落や新興住宅地が形成される田園地帯の中部、そして自然豊かな西側の山間部がある。

気候は冷涼で年間平均気温は約13度、降雨量は年間約1,500ミリメートル、2014年2月は長年住んでいる村民も驚く観測史上最高の約80センチメートルの積雪があったが通常はひと冬に数度の除雪で済む。統計上の人口(国勢調査を基にした人口)は約20,300人、老年人口比率が福島県内では最も高齢者割合の低い自治体でもある。

自然

湿地帯に自生しているミズバショウの写真

村の西側は日光国立公園の一部を成す那須山系三本槍岳(1,917メートル)、旭岳(1,835メートル)などの山々が連なり、太平洋と日本海の分水嶺となっている。この稜線がほぼ西側境界で、斜面にはブナ、ミズナラ、コナラなどの原生林があり、里山の雑木林とあわせれば村土の半分以上を山林が占め、豊かな水を涵養する。
山麓にはアズマシャクナゲや本村の花であるヤシオツツジが開花時には季節を飾る。また、ここは多くの動物を育む森でもある。天然記念物のニホンカモシカは人里に現れることもあり、ツキノワグマ、キツネ、タヌキ、サル、ノウサギ、ムササビなどが生息し、人里では近年イノシシやハクビシンも増殖している。
鳥類ではコノハズク、アカゲラ、コゲラ、アカショウビン、シジュウカラ、トラツグミ、カッコウ、ホオジロ、それと本村の鳥とするキジなど多種の鳥類が生息する。
平地では湿地の一部にハッチョウトンボも見られ、ミズバショウも自生する。
本村を源流とする阿武隈川は赤滝、霧降りの滝、雄滝、雌滝などの数多くの滝を形成し、渓谷美の中を一気に駆け下りて、河岸段丘を造り、平地に入る。川にはイワナ、ヤマメなど清流にしか住まない魚が泳ぎ、春の新緑、夏の蒼き山並み、秋の紅葉、冬木立、四季折々の鮮やかな景観を生み出し、甲子温泉(かしおんせん、1400年頃に発見されたとされ、松平定信が湯治宿所とした勝花亭や、同人が剣を以って鬼神を封じたとされる樹齢300年と言われる双幹の桂の木、剣桂がある)を訪れる人の目を楽しませる。
また、村内には4ヶ所のダムが造られ、洪水を防ぎ豊かな水を供給しているが、仙台に向かう阿武隈川水系と水戸に向かう那珂川水系の分水嶺も西郷村である。

産業

西郷村は、かつて採草地として土地利用が行われ、馬の生産が盛んで、全国にも有名であった白河馬市には各地から買付けに多くの人が訪れた。また、那須山系火山の噴出物、火砕流堆積物である白河石(石英安山岩質溶結凝灰岩)の切出し出荷が行なわれ、石垣や橋梁、枕木といった建設資材のほか、燈篭や墓石などに加工されてきた。そのような痩せた土地で冷涼であるゆえ、穀物として作られてきたのが蕎麦で、「まぼろしの追原そば」は追原地区生産者組合で店舗を運営し、生産販売、調理営業を行っている。11月はじめには新そばまつりが行われ、例年、楽しみにしている常連客も多い。また、レタス、ブロッコリー、アスパラなど高原野菜のほか、ジャガイモは種芋を全国の生産農家に供給していたほか、市場でも評価は高く、ポテトまんじゅうとして名産品を目指し販売されている。水産業では清流を利用したニジマス、イワナの養殖が行われ、淡水魚養殖の規模、出荷は東北屈指である。村の基幹産業は、旧来、稲作を中心とする農業であったが、東北自動車道白河IC及び東北新幹線新白河駅の村内設置に伴い進出企業も増え、第二次、第三次産業就業者が多数を占める構造となってきた。特に世界シェアや最先端の技術を持った企業などが雇用、村財政を支え、大型店舗、サービス業などにも波及してきた。また、国道289号甲子トンネルが平成20年に開通し、那須、西郷、南会津がルートになったことに伴い、温泉、ゴルフ場などを活かした広域観光も目指すところではある。村内には国県の公的機関も多く、畜産技術研究で受精卵分割によりクローン牛を成功させた独立行政法人家畜改良センターが全国本部を置くほか、一時全国本部のあった独立行政法人国立那須甲子青少年自然の家がある。また、県の福祉を支えてきた福島県社会福祉事業団も本村「太陽の国」に本部を置いている。就業者は約9,500人で第一次産業が7%、第二次産業が39%、第三次産業が54%となっている。

歴史の一幕

村内では打製石器、磨製石器、縄文、弥生式の土器も出土し、集落の地名は鎌倉末期に記されたものがあるが、江戸時代には白河藩支配下の農村であった。奥州街道の裏道ともいうべき原方街道が東照宮建立の際に整備され、会津や県南の諸藩から江戸へ送られた回米は、奥州街道の年間4万俵に対し、20万俵を扱った記録が残る。村内問屋には250頭以上の馬が繋留され、駄賃を稼いでいた。1780年代、天明の大飢饉が発生し7割の領民が餓死する藩もある中、白河藩は1人の餓死者も出さなかったと言われるが、時の藩主松平定信が米、海産物などの食料を調達する流通基盤はあった。その後では慶応4年1月に鳥羽伏見に始まった戊辰戦争があるが、同年4月末に白河に達した西軍に対し、白河小峰城の攻防を巡り、東軍会津藩はこの地で3ヶ月に亘り壮絶な戦いを繰り広げ、村内民家7割が戦火に焼失した。村内大龍寺には坂本竜馬と共に北辰一刀流千葉道場の四天王と言われ、会津軍に加わり村内雷神山に親子で壮絶に散った飯野藩(現千葉県)の森要蔵の墓が残る。明治22年4月1日、町村制の施行と共に、当時極貧の地であった山根14カ村(当時14カ村は西郷組とも呼ばれていた。)が合併し、現在の西郷村が生まれた。村はそれ以来合併も分村もない数少ない自治体として現在に至っている。
日清戦争後に軍馬が著しく劣ることを知った陸軍はその強化を狙い、西郷村にも軍馬補充部白河支部及び種馬所が置かれた。時を同じくして明治から演習場として使われ、さらに昭和3年に整備し設置されたのが、旧陸軍白河演習場である。敗戦と同時にこれらは廃止されたが、前者は農林水産省福島種蓄牧場を経て現独立行政法人家畜改良センターとなり、白河演習場は、警察予備隊演習場を経て、昭和30年7月、陸上自衛隊郡山駐屯地布引山演習場となっている。村内北西部山間地に約720haの土地を利用し、砲撃音を轟かせる。着弾地は本村北に接する天栄村である。演習場の設置に伴い、村は民生安定事業により、総合グランド、文化センター、小中学校、道路などの整備を行ってきており、本村のインフラを支えてきた。

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